フォーマットとコンセプト
抽象的な話なのですが、本にせよテレビにせよウェブサイトにせよ、メディアの成否はフォーマットとコンセプトに強く依存していると思います。
例えばある二人が新規事業を考えているとき、
「旅をテーマにしたウェブサイトを作ろう」
「いや、旅行メディアはretripがあるし大手はじゃらんもある。勝ちようがない」
などと話していたとします(うちの会社だったりします)
旅をテーマにしたメディアが当たるか外れるか、競争が多いのか少ないのか。多くのビジネスはここで議論が難航し、旅がダメなら「丁寧な暮らし」にしようなどとなるのですが、本質的にはフォーマットとコンセプトが発明できるかどうかだけが成否なので、ぐるぐるとテーマを変えていても意味はない。
飲食×インターネットメディアという軸でしかモノが見れてないと、ぐるなびのあとに食べログは成立するけど、食べログのあとにRettyは成立しづらいというのが理解できないでしょう。
上記の程度のことであれば、ある程度インターネットメディアに関わっている人からすれば常識的に理解されると思うのですが、この話をわざわざしようと思ったのは「水曜日のダウンタウン」が非常によくできているなぁと思ったからです。
水曜日のダウンタウンがやっていることは、一言でいえば一流の芸人が出演するドッキリ番組ですが、フォーマットは説の検証、コンセプトは芸人自ら企画をプレゼンして(演出上でしょうが)、エッジの利いた企画を持ち込む所にあります。
うまくいっている番組は根源的な面白さはドッキリのように使い古されていて、フォーマットとコンセプトによって飽きられない・ネタ切れしないようにできています。
業務で軽くyoutubeの企画を考えたりすることがあるのですが、結局根底の面白さ・有益さはごく限られていて(ドッキリ、作る・実験する、商品やお店を紹介する、一般人にインタビューしていじる、視聴者の代わりに遊ぶ)、古典的な面白さなんだけど視聴者にそれと気づかれず、新鮮なものを届けられるかがポイントに感じています。フォーマットとコンセプトが優秀であればあるほど、ネタ切れしづらく安価に大量に作れて毎回新しい面白さを提供できるんだなと。
youtubeで最近知ったのは以下のマッチングアプリの動画なんですが、これはインタビューして編集するだけで、毎回人と内容が多少変わっているからある程度は見る。だけど、やはり企画のマンネリ化はあるしコンセプトが強くないから、類似が出てきたらそれでも満足できちゃう。
このへんが本当に難しいですね。
名探偵コナンについて
コナンについて10年前から思っていることですが、
高校生探偵という天才コミュニティに属し
実家が超絶豪邸で
母親が超美人で
当然運動もできて名もない男たちからの人望もあり
そんな万能リア充が幼児化して、さらに無双して世界の巨悪?と戦う
これらすべてがこのオッサンの妄想だと思うと、泣けますね。
参考
名探偵コナンのクッソ恥ずかしい台詞で打線組んだ :日刊やきう速報@野球まとめ
41 作者は大マジやぞ
本当の戦犯
最近会社の有志(といっても全員だが)でなんでもいいから本を読んで感想などを共有する取り組みを始めた。 読書を他人に強制したいということはなく、こうでもしないと自分の読書習慣がどんどん削られてしまうので無理やり言い出しっぺになってみた。
読む本はもうなんでもありで、この週末は量子コンピュータと昭和史という、全然関係のない興味で読んだ。
日本史はあまりわからないんだけど、さすがに明治あたりからは世界史でも習ったから出てくる言葉は一通り知っている。しかし大学受験の勉強は効率優先で内容を楽しむ余裕はなかったから、改めて読むといろいろ理解できて面白い。張作霖がどういう人間だったか、柳条湖事件が前代未聞の陰謀であること、スターリンの巧みな外交戦略などなど。
中学高校のときも張作霖爆殺事件や柳条湖事件の概要については聞いていたはずなんですが、一通りの常識を身に着けた今あらためて聞いてみると、およそ近代国家が用済みになった外国人を陰謀で暗殺したり、自作自演の事件を起こして戦争に突入するなど信じられない。しかもそれが、国の独裁者がおかしな決定をして部下を動かしてやったわけではなく、組織のガバナンスが利かずに一機関(関東軍)が勝手な判断で陰謀を起こして、国の中枢がそれに感ずくと隠蔽する。取り返しがつかなくなったあとで「実はあれは・・・」と真相がわかる。
日中戦争、太平洋戦争の細かい敗因、誰が悪い彼が悪いというのは結局ミクロな要因であって、実はこういった組織運営、重視する価値観、非合理主義、石油が米英の陣営に抑えられていること。こういうマクロ要因が時間をかけて発露したのが敗戦だったんだろうなと。
満州事変の引き金となった柳条湖事件(関東軍が中国による攻撃をでっち上げた)を指揮した石原莞爾、本庄繁についてこう書かれている。
この人たちは本来 、大元帥命令なくして戦争をはじめた重罪人で 、陸軍刑法に従えば死刑のはずなんです 。それどころか本庄軍司令官は侍従武官長として天皇の側近となり 、男爵となる 。石原莞爾は連隊長としていったん外に出ますが 、間もなく参謀本部作戦部長となり 、論功行賞でむしろ出世の道を歩みました 。字義どおり 、 「勝てば官軍 」というわけです 。
昭和天皇に戦争責任があるかという重いテーマはいったん置いておいて、一応戦争開始前の天皇の態度は納得度があり、関東軍の陰謀を独自の情報網から感ずくと徹底調査を指示する。しかしながら現場が調査を打ち切ったり、指示を無視する。
僕が「そりゃ負けるよな」と思ったのは次のようなところ。
- 近代国家がやるとは考えられないような、組織の都合による謀略(張作霖爆殺事件や柳条湖事件)。そして組織統制の欠如。
- 明治憲法の欠陥。軍部に対して政府が指揮できず、軍縮条約の批准が軍部から憲法違反として突き上げられる。
- もともとドイツと同盟を結ぶのにそこまで積極的ではなかったが、ソ連を含めた四カ国に同盟を拡大することで日中戦争を有利に進めたかった。しかし翌年ドイツがソ連に侵攻したので思惑はパーになった。つまり、ドイツがソ連とも友好関係を築いてくれるという希望的観測
- 太平洋戦争開戦に踏み切ったのは、ドイツがイギリスを叩きソ連戦も優位に進めるという予測に基づいていた。しかし開戦直前、すでにドイツが負け始めて戦況が変わっていた。事態の変化に対処せず、決定事項を覆すことができなかった
- 国民だけではなく軍人・政治家といったプロも日本の不敗神話を少し期待していた。例えば競馬で「10年連続で1枠が馬券になってる」みたいな理由で実績以上に1枠が人気しちゃう的な。そういう非合理性は大衆にありがちだけど、プロがそれをやっちゃう。
さて、タイトルの戦犯について。 戦犯というと筆頭は東條英機とあがると思うが、読んでみると東條英機の名前が出てくるのはもう戦局が決定的になり首相一人の考えではどうにも動かせない時局です。で、東條英機は主戦論者だけど天皇に対しては忠実だったので、この際天皇とその周辺が陸軍との連絡役に使おうとしているように見える。
一方、独断で柳条湖事件を起こした石原莞爾の影響力は大きく、最終戦争論で拡張主義・覇権主義の思想的バックボーンを打ち出している。そもそも陸軍が言うことを聞かなくなったのには 統帥権干犯問題 が端緒にある。 明治の憲法で陸海空軍は天皇が統帥するという規定があり、統帥権とはここで認められた天皇の権利を指す。普通に読めば天皇が軍隊を指揮するという意味だ。 一見問題ないようだが、読みようによっては 軍隊を指揮できるのは天皇だけである というふうに、独立した権力にも解釈できる。
これを盾にワシントン軍縮会議で政府が決定した事項を軍部が覆すよう迫ったり、関東軍が手柄を優先して政府や陸軍本営の行くことを無視するようになった。これが統帥権干犯問題なのだが、これを入れ知恵したのがどうも北一輝だという。さらに陸軍の中にいた石原莞爾が妙に思想っ気がある人物で、覇権主義的な思想を陸軍の中に広めていった。
こうしてみると、後代の人々が知っている戦犯とは既成のシステムの上にやむにやまれずその役割を演じただけであって、根本問題は北一輝や石原莞爾ら思想家、そしてその跋扈を許した明治憲法の欠陥にあるのではないか。
さて、ここまではこの本の中に書いてある内容に私の感想を軽く付け足した程度なんだけど、気になった点がある。これは陰謀論だが、明治憲法にバグがあり、そのバグが統帥権干犯問題として沸き起こり、しかも頼みの天皇は天皇機関説とか政治の独立の観点から表立って口出ししづらい雰囲気があった。これは偶然なんだろうか。
また、もう一つ陰謀論が出そうなところで盧溝橋事件がある。日中両軍が偶発的に武力衝突したという事件で教科書では日中戦争の引き金として有名だが、もともとなぜ衝突したかがよくわかっていない。史実では日本軍のほうに弾が飛んできたのは確からしいが、同時に中国軍のほうにも弾が飛んでいるという。いまとなってはどうでもいい話かもしれないが、どうでもいい話こそ真相を知りたがるタイプなので気になってしまう。
サマータイムの話題のついでにUNIX時間、UTCあたりの復習をする
サマータイムが話題ですが、流行に乗っかってサマータイムはプログラム上どのように表現されるか、考えてみたい。
UNIX時間、UTC、JST
議論の出発点としてプログラムで時間がどのように扱われるか、一般的なところから初めて見る。
まず、コンピュータ上の表現として、UNIX時間(unixtime, posix time)というものがある。
これは時刻を数値表現として扱うよう、1970年1月1日0:00:00を起点に、そこから何秒経過したか形式的に計算したものとなる。
試しにrubyで実行してみると、
irb(main):003:0> t = Time.now => 2018-08-12 01:40:47 +0900 irb(main):004:0> t.to_i => 1534005647
となった。1年は606024*365で約3153万秒なので、約48.65年経過していることになった。 これはだいたい正しそうだ。
しかし1970年からの経過秒数だけがわかっても今が何日かは正確にはわからない。なぜなら暦は定期的にメンテナンスされるからだ。
そこで協定世界時(UTC Coordinated Universal Time)という概念がある。これは厳密な仕組みは物理学的な話なので飛ばすとして、要するに国際的な機関が正確な暦のためにうるう秒を挿入したりと暦をアップデートすることで、季節がだんだんずれたりすることがないようにしている。
この記事を書くにあたり調べて初めて知ったが、UTC→UNIX時間は一意だが、UNIX時間からUTCは一意とは限らない(うるう秒の挿入・削除をUNIX時間は考慮しないから。したがって1970年からの経過秒数というのは厳密には誤り)
で、そうこうして国際的な機関が決めたUTCに、9時間を足したのがJST(Japan Standard Time)となる。例えば今は日本時間で深夜1:59だが、表記としては+0900をつけてUTCから9時間進んでいることを示している。
irb(main):003:0> Time.current => 2018-08-12 01:59:35 +0900
ちなみにイギリスはグリニッジ天文台が云々という話を地理で習ったと思うが、UTC+0を標準時にしている。ただし夏季はUTC+1となる。
したがって、今日本で提案されているサマータイムとは、夏季限定でJSTをUTC+9から、UTC+10とかUTC+11にするということだ。
どういうところで問題になりそうか
ユーザーが時間を選択する or サマータイムの有無をまたいで使用するケースがある
例えば7月頭でサマータイムの運用が開始するとして、ユーザーが6月30日15:00スタートのチケットと7月1日15:00スタートのチケットを購入するとする。これは内部的にはサマータイムがUTC+10だとして、2018-06-30 15:00:00 +0900, 2018-07-01 15:00:00 +1000 になる。 まぁこれだけなら意外とすんなり扱えそうだけど、サービスによっては24時間以内に重複した申込みがあったらNGというバリデーションを設置しているかもしれない。するとこれはサマータイム適用時に1時間早く進んでいるから、間が23時間しか空いていない。これは多くのアプリケーションではセーフにしたそうだけど、ものによってはNGかもしれない。
だいいち、ユーザーがサマータイムを想定してその時間を選んでいるかどうかも厳密には怪しい(これはUIで頑張るしかないけど)。
バッチ処理
OSのtimezoneがJSTであれば、cronの挙動は8:00にデイリーで動かすバッチ処理があったとしたら、サマータイムの前も後も8:00で動くはずだ(たぶん)。 しかしUTCで動いているとサマータイムの前と後で名目上、動く時間が変わる(たぶん)。
またバッチ処理には24時間分のデータがある前提で動くものもあり得る。私が開発した経験があるものでもわりと不安なものがいくつかある。
*** そもそも検証する工数が確実に発生する
JSTの定義が変わるとおそらく言語・ライブラリのアップデートが必要になる。逆に言えばアプリケーションレベルではほとんど手を入れずに動くものも多いかもしれない。しかしながら確実に動作確認なり問題がないことの検証なりの工数は発生するわけで、多くのケースではこれで人手不足になるのではないか。(そしてサマータイム運用コンサルなる謎のSIが生まれるかもしれない)
そのへんのベンチャーのサービスならともかく、勘定系などでとてつもないQAが発生するのは間違いない。
で、賛成か反対か
壮絶な反対多数のネット世論の中こういう事を言うのはリスクだが、私はサマータイム賛成派だ。ゴールドマン・サックスの友人が海外で働いていたとき、定時で仕事が終わったときにまだ明るかったのに飲みに行った経験が非常に良かったという。私もそれを日本で体験してみたい。
エンジニアとしては2点ある。1点目は、そもそもサマータイム自体がそこまで突飛な話ではないから、エンジニアとして想定すべきというか、拒否するような話ではないと思うからだ。例えば消費税を8%に増税するとき、増税はシステム上想定してないから絶対反対だといってるようなものだ。
2点目は、別に社会はエンジニアが何をやりたいかから決まるわけではない。社会的な課題や利便性があるなら、そのためにシステムやプロダクトを作って課題を解決する、社会の利便性をあげる。これがエンジニアの心的姿勢だと思う。一応サマータイム導入の海外の事例や経済効果の試算は存在する。批判するならそれを覆すだけのコストとリスクがあるという話を定量的にするしかない。
野望の王国の好きなシーンで打線組む
1. 敵対する暴力団を港湾施設に誘い込み大量虐殺(第1巻)
自分たちがやった殺人をもともと仲が良くなかった組の仕業にしたい→その組と抗争状態に→その組に濡れ衣をかぶせるため孤立化を狙う→援軍を片っ端から殺す、みたいな、けっこう遠回りなことしてます。
※ 編集の都合上、左→右の順になってます
2. 右翼の大ボス小田が小人と女を連れ込み乱痴気騒ぎを行う(4巻)
右翼の大ボスほどになると男でも女でも気持ちよければどっちでもいいみたい。
3. 東大助教授を恫喝&威力誇示のために駒場キャンパス時計台爆破(4巻)
助教授は以後政治家に転身し、2人の手足となり働きます。この駒場の教授煽りは何かに使えそう。
4. 川崎大騒乱(9巻)
製鉄所、石油コンビナート、自動車工場等を爆破。
競馬場で八百長騒ぎを起こして暴動を扇動する。
ここまでする動機が、「不当逮捕された親分を警察署から取り戻すため、川崎中で混乱を起こして警察のリソースを分散させたかったから」という、たったそれだけなのも評価のポイント。作中のハイライトだと思う。
5.川崎中央署長柿崎、教祖の足を舐める(11巻)
いろいろあって権力の後ろ盾を失いつつあった柿崎は新興宗教教祖の知己を得る。
力のためなら足だって舐める。
6. 県警本部長、柿崎の人脈に震える(12巻)
いろいろあっていつの間にか権勢を取り戻した柿崎は警察庁長官とも懇意にする。それを知らない県警本部長は柿崎を執拗に叱責して怒りを買う。
7. 小田の後釜立馬の奇行(17巻)
剣山の上に寝転ぶシーンも圧巻。
マルキ・ド・サドの小説にアペニンの隠者ミンスキーという、食人の大男で一日に何発も抜かないとしょうがないという怪物のようなキャラクターが出てきますが、まさにそんな感じで作中で一番好きなキャラかも。
8. 立馬、大神楽という吉田茂っぽい政治家宅を軍隊で襲撃
私兵を引き連れ〜、という説明なんですが、右翼の大ボスは自衛隊の中に派閥でも持ってるんですかね・・・。
9. 大神楽、力の差を見せつける
私邸までの公道にいろんなトラップが仕掛けてあって、軍隊は生き埋めにされます。この世界では吉田茂最強な設定になっている。
10. 結局なぜ野望を成し遂げるかについては言及されない
大好きな兄を倒してでも野望を達成するというテーマではあったが、結局野望とはなんなのか、なんのためなのかは全く触れられない。
惜しくも選考を外れた印象的なシーンの数々
・主人公らが東大教授に向かって、東大法学部に入学したのは人々を支配するためだと宣言するシーン
・ラスボスの宗教団体を壊滅させたあと、霞が関の官庁を見下ろすシーン
・立馬、私兵の中から裏切り者を見つけるために片っ端から拷問にかける。白状したら助けるといいつつ、結局棍棒のようなもので暴れちらし粛清する。
・小田暗殺のため病院の広範囲を爆破
・宗教団体の信者、教義のためなら刺されても撃たれても痛みすら感じず暴力団事務所を壊滅させる(※ オウム事件のだいぶ前の話です)
・教会神父に化けて柿崎が橘兄弟に復讐を仕掛ける
・橘、権力の差を見せつけ柿崎に土下座させる
・柿崎、警察こそ最大の暴力組織だと宣言して右翼団体を射撃、「全員逮捕しろ! 誰一人無傷のままにするな! 」は名台詞
・選挙で人気を獲得するため、列車事故を誘発させ脚本通り救出させる。
・赤寺、自身の出所で腕が鈍ってないことを示すために競馬で入着した馬を爆破する
・大神楽に反旗を翻す旗印に、料亭を延焼させる(なんのために・・・?)
備考
これの作者は美味しんぼの作者と同一人物です。
四丁目の夕日
四丁目の夕日という漫画を読んだ。
承
ある日不幸な事故により母親が大怪我を負い、家計は窮地に至る。主人公は進学を諦め父の仕事を手伝おうとするが、父親はそれを許さず必死に働くことを決意する。
深夜も寝ずに体に鞭打っていた父であったが、機械に巻き込まれ凄惨な最期を遂げる。
主人公は家業を継ぎ一名の従業員と必死で会社を切り盛りするが、未経験の主人公に経営できるはずもなく、結局会社は潰れ担保の土地と家屋を失ってしまう。
当然進学はできず、劣悪な環境下で工場勤務をすることに。
転
二年間の転落生活で、主人公の精神は荒廃し、夜な夜な徘徊しては過去の思い出に浸っている。
さらに主人公が住むアパートで、隣室の住人が発狂し家族が斧で惨殺される。主人公も発狂し、住人を返り討ちにした上で斧で無差別に人を殺す。結局すべての事件が主人公の精神錯乱によるものとされ、精神病院へ送られる。
ミソラ事件
NHKのアナウンサーがオリンピックの開会式で、誤って閉会式といってしまったらしい。
同じNHKということもあり、古い話でミソラ事件を思い出した諸氏も多いだろう。
ミソラ事件とは、紅白歌合戦の終幕で都はるみの名前を司会のNHKアナウンサーがミソラと言い間違えてしまった事件のことだ。ミソラとはもちろん、当時暴力団との交際がやり玉に挙げられて活動が制限されていた美空ひばりのことである。
文化水準も増した現代人からすれば、このようなありがちなミスをことさら取りざたして糾弾するなどという昭和の人間の考えが信じられないのだが、当時は大事になり、アナウンサーはその後日の目を見なかったという。
たまたま先日、似たようなことが起きた。
友人の結婚式があり、両親への感謝だのありがとうだのとお決まりのフレーズを朝から延々と聞かされた(創価学会の勤行のように、同じことを繰り返すのにも意味はあるので否定しているわけではない)
結婚セレモニーは高度に産業化しており、多少のばら付きはあれど、新婦には伝えていないサプライズ的な段取りが挟まるなど、フォーマット化されている。
この日も新郎の関係者挨拶が2件(だいたい勤めている会社の社長→上司となる)、新婦側2件の挨拶であった。
そこで新郎側の会社の社長が、挨拶の中で新婦の名前を間違ってしまった。
すぐ訂正したのだけど、そのあとの会社の上司もテンパってうちの社長が名前を間違えてしまって〜と、焦っていた。
考えてみると披露宴は和やかなムードだしまぁ許されるだろうが、式で神父が宣誓の際に名前を間違えていたりするとさすがにオオゴトだろう。あの神父ズラの外国人もただのエキストラのように誰でもできるようで、重責を担っている。
そういえば私も旅行先のホテルで知り合いと「ストリップを見に行こう」と大声ではしゃいでいたら後ろに小学生くらいの子どもを連れた母親が立ってたことがある。
それは全然違うか笑