プログラミング 美徳の不幸

Ruby, Rails, JavaScriptなどのプログラミングまとめ、解説、備忘録。

「絶歌」を読む 前半

神戸連続児童殺傷事件の酒鬼薔薇こと元少年Aが手記を出版したと話題になっている。
しかしこういった話は予想通り、遺族感情を逆なでするという批判を受ける。www.j-cast.com


こんなブログを読む読者にしてみれば文芸作品の価値が社会的有用性・受容性によって決まるものではないということは常識だと思うのであえてそのような論点の話は避ける。
というより私は不健全な悪書と言われれば言われるほど率先して読んでしまうタチなので、今回も出版を断行した太田出版に敬意を表してちゃんと購入した。

手記のおおまかなあらすじはこうなる。
まず前半部は事件前~事件前後の事実関係、体験や心理状態の叙述になる。後半は徐々に社会復帰していく中での葛藤になる。
この本の独自の価値を見出すならば、やはり殺人に至る心理的背景や意味付けだろう。したがって立ち読みするなら後者は読む必要はない。

殺人に至るまで、いくつかのステップを経ていることがよく分かる。このいずれかの条件を満たさなければおそらくはもっと些細な犯罪で留まったのかもしれないと思わせる。


■祖母の死と精通

Aは第二次性徴を迎える前、祖母の死に直面する。そのこと自体は格段変わった出来事ではないが、少ししてから祖母の電気按摩を何気なく股間に当てたことでそのまま精通を経験し気絶する。
以来、神聖な祖母の記憶や電気按摩と穢らわしい性衝動が結びつき、射精時に激痛を伴うようになる。
この出来事がAの性的嗜好として半道徳性が意味を持つきっかけとなる。

僕は祖母の位牌の前で、祖母の遺影に見つめられながら、祖母の愛用していた遺品で、祖母のことを想いながら、精通を経験した。
僕の中で、"性"と"死"が、"罪悪感"という接着剤でがっちりと結合した瞬間だった。(p48~49)

■ナメクジの解体から猫の殺害


Aはナメクジの生体にいつしか関心を持つようになりナメクジを捕まえ、カミソリで切って内臓を観察するようになる。それは記述を読む限りでは、どちらかというと知的好奇心に基づくようだ。
ところでこういった虫とか小さい生物を殺すのはわりと普遍的に見られる行為だけど、どちらかというと年齢的に第二次性徴を迎えるのと同時期の趣味だったことを考えると少し年齢が経っている感じもする。例えば小4,5くらいだとカブトムシの百科事典のようなものから、生物の仕組みの百科事典のようなものに読書対象が変遷していくのと同じような関心かもしれない。(全く余談だけど小4,5くらいの私の関心はブッシュvsゴアだったり自公政権だった気がする)

そもそも解剖趣味というのは、ジャンクPCを解体してみるというような、ある意味男性にはどういう形であれ共通した根源的欲求だと思う。これが先ほどの性衝動と結びついたきっかけが猫の殺害になる。

ふとサスケ(註: 老衰死した飼い猫の名前)の小屋に視線を移すと、近所の野良猫の一匹が、サスケのお皿にてんこ盛りになっている餌の山に顔を突っ込んで貪っていた。
―殺そうー
(略) 間違いない。"ソレ"は性的な衝動だった。(p59)

これが少年にとって決定的な倒錯の原点だろう。正直、自慰行為になんらかの罪悪感を重ねたり魚やカエルの解剖が趣味の小学生はそれなりにいそうだけど猫は普通殺さない。一般に、先ほど言ったように児童が虫を殺したりするのも親は心配するがほっとけばおさまるという。カウンセラーを受診しなければならない重要なシグナルというか分岐点は猫らしい。

このあと少年は、なんどか中断するきっかけ(負傷しながら逃げられる、トドメをさすためにカッターを取りに戻るなど)があったにも関わらず脳天を砕いて絶命させた上でイッてしまう。

■一人目の殺害と不登校

このあと反復的に野良猫を殺害して自慰行為をするようになったAはその快楽に飽きとうとう人を殺そうと思い立つ。
事件についてはwikipediaが詳しいとして、一人目を殺害したあと、書籍からは動揺が読み取れないくらい冷静にその後も通学している。しかし友人に対して冗談のように決闘を挑み、相当殴りつけた上でナイフを取り出す。この件自体は友人が咄嗟に逃げたので大事に至らなかったが、猟奇行動が学校の生徒に知れることとなりそのままフェードアウトする。

どうもこのあたりには、社会に対する帰属感が全くなく、本人も明晰夢と言っているように本当に現実の中で自分が殺人を犯しているのかがよくわからないような、意識の混濁感のようなものを感じる。正直言って私もそういった感覚を個人的に感じたことはあるし、一言でいえば社会性がまだ成熟しないまま行動だけエスカレートしているような感じなのかもしれない。


■二人目の殺害

二人目、つまり酒鬼薔薇の名をしらしめることになる頭部を校門に遺棄し挑戦状を送った事件が発生する。ここで二人目の被害者を殺害した溜池はAにとって神聖な場であり、その全体を通じて宗教的儀式性のニュアンスが示唆されている。
その意味合いの解釈は重要かつ難解なので次に譲るとして、Aは頭部が溜池の地面に横たわる様子、校門に頭部が置かれた異様な光景をして芸術作品と位置づけている。

呪詛と祝福はひとつに融け合い、僕の足元の、僕が愛してやまない淳君のその頭部に集約された。自分がもっとも憎んだものと、自分がもっとも愛したものが、ひとつになった。僕の設えた舞台の上で、はち切れんばかりに膨れ上がったこの世界への僕の憎悪と愛情が、今まさに交尾したのだ。
告白しよう。僕はこの光景を、「美しい」と思った。(p98)

明らかに殺人の描写で語彙、表現が加速していくのが見られる。当然手記はそのときの情景を想起して書いているわけだから、この高まりは今でも再現性があるということかもしれない。
(ちなみにサドも原著では倒錯シーンの絶頂ではフランス語の文法が乱れるなど、文体に特徴があったらしい)

ちなみに回想では頭部の切断と遺棄には感情的な移入が見られるが、挑戦状のほうには個人的に好きだったB級ホラーの世界観を多少援用した程度で、確たる思い入れが感じられなかった。


どうもこのあたりに世間の酒鬼薔薇像と実体の乖離を感じる。世間の酒鬼薔薇像は、あの赤字の直線ばった猟奇的好戦的なメッセージに根付く部分が多いと思うが、書籍を読む感じだと一言でいえばフェイクじゃないか。つまり、ことの本質的な面はあくまで性的倒錯であり、普通の中学生が自分のアブノーマルな性癖をなるべく隠すように、Aにとってこの手の犯罪を嗜むごく一般的な猟奇犯のイメージが酒鬼薔薇なのかもしれない。




長くなったのでこのへんで終わりにするが、次回はA自身が引用するフロイト死の欲動(デストルドー)とサディズムの話、およびこのあたりの大家であるバタイユらの話に移りたい。