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プログラミング 美徳の不幸

Ruby, Rails, JavaScriptなどのプログラミングまとめ、解説、備忘録。

冴えないおっさんというコンテンツ

この1ヶ月のうちに渋谷を歩いた方は「どぅんつくぱ!」という子供の掛け声が大音量で流れているのを聞いたかもしれない。
どぅんつくぱという音楽番組が近頃始まり、その準レギュラーに佐村河内の影武者だった新垣さんが就任したという。
当時、佐村河内氏は国民的人気を誇ったが、三日天下だったといえる。いまや新垣さんのほうが多忙で、この流れは続くだろう。
この現象を私なりに分析するに、新垣さん人気はある意味で日本の国民性にマッチしているのかもしれない。すなわち、実力はありながら実績は人に奪われ、陽の目を観ることのないしがない中年というコンテンツが日本人受けするということ。

このしがない中年というのがミソで、少し前だと内藤大助もこのジャンルに入っていたと思う。私も新垣さんはすごくいい人っぽいなという先入観がすでにできあがってしまったけど、国民全体の意識がそうなっているのはあくまで佐村河内との相対的評価であって、新垣さんにしても陽の目を観ない中年=いい人という定理が成り立っているとは限らない。

いや、むしろこの定理はどちらかというと間違っている。私はそうは思わないけれど、一般的にいって日本はじめ世界の各国では親孝行をして真面目に仕事に励む人が出世し、幸せな人生を送れるということに、道徳教育や童話の類では定められている。したがって陽の目を観ない中年は今まで真面目に生きてこなかったとか、性格に難があって嫌われているとか、能力的に足りていないと考えるほうが自然である。

ここに意識のアンビバレントが存在する。つまり理屈上は冴えない中年は評価に値せず期待しないけれど、そういう人が実は他者に虐げられていて出世できてないとか、希望的な感情を人は抱いてしまうのである。

ところで冴えない中年が何かのきっかけに一躍スターダムにのし上がるという希望的感情を満足させる例として新垣氏が挙げられるが、逆に冴えない中年がダメなことをしてボコボコにされるという理屈を満足させる例として誰が挙げられるだろうか?

筆頭はやはりIPS細胞の森口氏であろう。森口氏は、まぁ本人も意外とあのキャラを面白がっているのかもしれないけれど、虚構で塗り固められた人物像が崩れていく様を見て、あれよりは自分はマシだという安心感を提供しているのかもしれない。


まとめると、人々は新垣氏のように出世するパターンも好きだし、森口氏のようにボコられるパターンも好きだということ。だからおっさん専門のメディアでもつくろうかなと思います。