プログラミング 美徳の不幸

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平成政治史を振り返りたいんだけど

私は政治的ポリシーは若干リベラル寄りのノンポリだが、政局に関してはコテコテの派閥政治ウォッチャーだ(笑)
最近、「ゆっくり」なる動画の作り方を覚えたので、「平成政治史を振り返る」なる動画を作ろうとしてるんだが、平成4年あたりのボリュームが多すぎて全く先に進まない。

そこで小出しになるが、平成4年の政治史の何がそんなに複雑でボリュームが大きくなるか、手短にまとめたい。

平成4年ということは1992年で、ときの政権は宮澤内閣である。92年の世相を当時の週刊誌で振り返ると(私は真面目なのでこういうとき国会図書館で一次資料をあさりまくる)、92年の顔1位は貴乃花光司、2位は金丸信で3位は竹下登となっている。というふうに、表の顔は宮沢喜一だけど世間の認識では金丸・竹下による竹下派支配全盛期である。

竹下派については、平成元年の海部政権成立時に小沢一郎が47歳の若さで幹事長に就任して以来、小沢を高く評価する金丸(派閥会長)が小沢を引き立て、金丸-小沢ラインと竹下-その他ライン(小渕等)ができあがっており、経世会(竹下派)内部に対立構造が生まれていた。
宮澤内閣はそんな経世会支配を目の上のたんこぶにしていた。
そのパワーバランスの中に東京佐川急便事件が起きる。これも説明しだすととてもブログ1記事には収まらないので手短に言うと、金丸信が失脚(92年9月)した。経世会の均衡が崩れ、小沢が竹下派の継承を目指すも闘争に敗れてグループを作る(改革フォーラム21、92年10月)。


以上が表の史実だ。ただこんなことをまとめたところで面白くもなんともない。そこでここから先は、自分の見解も交えた政局評になる。

92年12月、宮澤内閣が改造を断行

まず宮澤内閣の目から見て経世会が↑のような分裂をしたらどうだろうか。この機に乗じて竹下派支配からの脱却を目指し、両者(小沢・竹下)が潰し合うことを望むだろう。しかし現実には宮澤内閣は経世会分裂直後に内閣改造を行い、人事を餌に反主流派(小沢グループ)の切り崩しを行う。宮澤-竹下はいつの間にか手を組んで小沢打倒に傾いたということだ。他派閥(三塚・渡辺)もこれに同調する。

92年臨時国会、内閣不信任案は提出されず

この臨時国会では東京佐川急便事件によって竹下・小沢は証人喚問され金丸は議員辞職している。現代の感覚なら明らかに野党から不信任案が出るべきだ。しかし出なかった。なぜなら小沢グループが同調して可決するリスクがあるからだ。要するにこの時代の野党(社会党)は自民党と内通しており、幹部には第二竹下派というべき人間がおり、竹下が内閣不信任案の提出のタイミングをコントロールしていたのだと思う。

新党構想、からの93年不信任案可決(6月)、解散へ

明け93年、不信任案が提出されると小沢グループは賛成し離党する。宮澤内閣は解散断行する。ちなみによく誤解されるが解散によって自民党議席を減らしたわけではなく、離党者が多かったので過半数割れになっていた。
この不信任案は社会党を中心とする野党から提出されたが、↑で見たように野党の不信任案は竹下派がタイミングを管理していた可能性が高い。この不信任案可決は竹下登の政界スケジュールの一つだったと思う。
ただここで、
①不信任案可決→小沢グループの切り崩しに93年前半で成功している→過半数維持可能
②不信任案可決→小沢グループ切り崩せず過半数維持不能

の2パターンがある。上で説明した内閣改造から野党の懐柔までうまい具合に小沢包囲網を築けたのは、
・三塚、渡辺・・・①or単独政権復帰後の首班指名約束
社会党・・・②のときの首班指名約束
・宮澤内閣・・・この密約による一時休戦
を餌にしたからなのだろう。

社会党新生党日本新党との連立政権

93年7月、総選挙の結果を受けて非自民8党連立政権が誕生する。社会党はこの時点では小沢率いる新生党に与する格好となった。「あれ、第二竹下派とかいって結局小沢側についてるの?」ってなるんだけど、冷静に考えて自民党に不信任案を突きつけた政党が総選挙後に自民党といきなり連立するのは立場が悪い。
ということで、竹下登としてはそれこそ隠れ竹下派武村正義あたりを政権に送り込みつつ、ワンポイントリリーフで新鮮味のある政権を作らせて、適当なタイミングで潰して国民のガス抜きにするくらいに思っていたんじゃなかろうか。
だからこの政権は社会党離脱によってご破産となっているし、すぐに社会党首班の連立政権が生まれた。



しかし、それこそ本気で潰す気ならやはり細川内閣なんてすっ飛ばして宮澤→村山内閣の成立は理屈上可能だったと思う。これは小沢一郎に華を持たせたのか、社会党の事情を考慮したのか、長期的な自民党の支持率回復のためにあえてのことだったのか、わからない。


といったように、平成政治にはロマンが深いのである。↑の内容で平成5年までだから、ここからYKKや野中・青木・古賀、加藤の乱、小泉vs旧竹下派、小沢復権民主党分裂、安倍一強時代へ・・・・と解説していっては、尺が足りなすぎる。